はじめまして宇宙の旅人さんのお誘いで登場しました。
みさわです。どうぞよろしくお願いします!
それは実に25年の時を旅する事に成ります。
当時日本は空前のUFOブームで1975年から79年あたりまでは頂点であったように思えます。その10年前が原因していた事もありますが、TVメディア、専門誌などを通じてかなり頻繁にUFO情報が流されていました。
ただ情報が多くなると操作され、怪情報なども多く混沌化も始まって来ていました。
その中で僕達はそれぞれの出会いの中で、引かれ合う感覚の中で動いていました。
これは基本的には今も同じなのですが、時の場というものはその時だけのもので、その中をどのように動くかが大切に成ります。
丁度僕が古山さんに出会ったころもある動きの中で出会いました。
1978年だったと思います。あの「UFO教育グループ」が来日し話題を呼びました。
シャーロット ブロッブ女史を中心とするアダムスキーを伝えるグループで古山さんも唯一の日本人としてこのグループと共に来日されていました。
この事は皆さん既にご承知だと思いますが、大橋巨泉の「11PM」にも出演し専門誌でも特集があり日本各地で講演会がありましたから忙しかった事でしょう。
先日知ったのですが、浅川さんグループ主催の福岡講演もその一つだったわけです。
来日は「アダムスキー リターン」「蘇ったアダムスキー」と言われかなりな反響でした。
僕は当時故郷の長野県諏訪市で友人達とUFOの研究や観測などを始めていました。
「UFO教育グループ」の確か東京、牛込の講演会を知りそこに行ったのです。
その日は何か素晴らしい事が待っているような感覚を持って出掛けました。
講演の後ロビーで古山さんを見つけました。古山さんはそのとき丁度一人で、誰とも話をしていなくて僕の方を見ていました。目が合ったので近ずいて行き話をしました。
その時は短い会話だったのですが僕が当時友人と撮ったUFOの写真をまじえ話しました。
そのうち古山さんが「時間があればホテルにいったん帰ってから何処かで話しませんか?」と誘ってくれて九段下のフェアモントホテルのロビーで古山さんを待っていた時の事でした。
そのホテルのロビーではとても良い事がいくつかありました。
一つは僕の直ぐ隣に一人立っていた人に気ずいたのですが、それは最後の(同年他界)ジャズの巨匠 カウント ベーシーだったという事と、シャーロットさんに握手できた事です。
そのとき既に高ぶる心を制御させ始めていました。講演会前のあの感覚は正しかった!
そして何があってもおかしくないという感覚に成って行きました。
古山さんがロビーに降りて来ると彼を待っていた人はもう2人いました。
一人の方はもう覚えていませんが、もう一人は韮澤さんです。
4人でタクシーに乗りどこかのラウンジで話しました。(既に無重力状態でした)
講演会の成功を喜び合う場に一緒に同席させていただいて嬉しかったと同時に、急に韮澤さんが「貴方は何をされている方ですか?」とたずねられて実際答えに戸惑うほど僕にとってのその場所が特別で無重力だった。長野から朝出て来て講演会の後いきなりその夜「特別な場」に達したわけですから無理もありません。忘れられない日になりました。
僕が古山さん著の「宇宙の友人たち」を読んだのはその講演会の直前でした。
やっと沸々とたずねてみたい事などが生まれてきていましたが、もうそのころの自分の動きははっきりとして来たのです。その後米国の古山さんと文通する中で1979年の日本一時帰国を知り、日本各地の古山さんの講演会の一つとして長野県諏訪市の講演会を提案しました。
自分が決心して行動すると回りも自然に動いてくれるものです。沢山の人の協力で講演会は始まりました。250人程の人が集まりました。公演中、古山さんが用意してくれたフィルムで戦闘機がスクランブルを受けてUFOを追跡しているものがありましたが会場は唖然と成りました。
戦闘機が飛行雲を出しながら直線飛行しか出来ないのに、UFOは先に行ったり横に急に移動したりまるで生き物のように移動するのです。質疑応答も盛り上がりこの講演会をきっかけに新しい展開がありました。会場に来ていた人や講演会の新聞記事で僕達とコンタクトして来た人の中には驚くべき体験を語ってくれた人がいました。 その一つを紹介しましょう。
ある精密会社の社長さんが自宅兼工場へ僕達を呼んでくれて話してくれた事があります。
戦後直ぐに秋の山に一人でキノコ採りをしに行ったときの話は印象深いものになりました。
その社長さんもいかにも人のいい感じの人でその体験談もうなずけるものがありました。
キノコを採っているとある沢へ降りて行った。すると下の方にバスが止まっていてその前に2〜3人の人がいるのが見えた。こんなところで何をしているのかと思って近くに行こうとしたらその人達が気ずいたようで直ぐにバスの中に入って行き、バスが空中に浮いてその後飛んでいった。
という凄い体験話ですが、その社長さんは自分はソ連かどこかのスパイ現場に遭遇したのだろうとずっと思っていたそうです。私達から質問したところ、そのバスの表面は銀色の金属で横に窓が並んでいたという事でした。旧式のバスは屋根と全体が丸みを帯びていますが、そんな事からバスと表現するのが最も近かったのだと思います。しかし道も無い山の沢にバスが来れるわけはありません。
また浮いてから飛んで行く間に瞬間停止していたようで、何と窓の中に人がいてこちらを観ているのも分かったという事はかなりな至近距離で遭遇したという事になります。20〜30mくらい前でしょうか?
人はやはりつなぎの様なものを着た僕達と同タイプだったという事です。
浅川さんからのメールでこの「社長さんの遭遇はもっと深い内容があったのかも?」というご指摘はさすがです!この社長さんはそれからもUFOらしきものを見るようになりその工場の屋根すれすれに音も無く飛んできた小型
UFO(フリスビー型)の説明もしてくれました。
その後25年が経過しこの社長さんはどうなったのかは知りませんが、もしかするのかもしれませんね!
僕はそのバス型UFOはおそらく地質調査をしていたと思うのです。諏訪市は活断層(糸魚川中央構造帯)が諏訪湖の中にまで通っていますから日本の構造はここでも大きく二つに分かれているのです。
それを(彼らも)調査していたと思います。 目的は秋のキノコ狩りバスツアーでは無いと思いますよ(笑)
古山さんの話に帰ります。「研究の為に使ってください」と古山さんからアダムスキーが撮った一連の写真をいただきました。確か原版からコピーした写真と説明してくれたのですが、また無重力状態に成りました。
特に例の1952年12月13日 パロマガーデンズへ飛んできたスカウトシップの世紀の写真2枚です。
余りの鮮明さと美しさに正直言葉も出ないほどでした。それ以前もその後もこれほど鮮明にコピーされた写真は見た事がありません。例えば着陸用ギア付近はそれまで全然違うものを見せられて来た事が直ぐに分かるほどの鮮明さです。コピーのそのまたコピーみたいな写真ではとても分からない部分まで分かるのです。
それはつまり静かに本物だけが持つ感覚が語りかけてくる写真なのです。
その後古山さんにとっても「1979年の旅立ち」でもありますように大変な時期を過ごされたようです。
僕はUFO研究をしばらく続けTV局でも研究が取り上げられた事もありましたが、新たな1980年と共にUFOへの興味が薄れ、自分の内側に向いて行きました。古山さんとの音信も途絶えました。
UFO研究は結局人間研究ですからそれも自然な流れです。自然散策、音楽,、出会い、小さいながらも始めたビジネス、精神世界への興味など空から地上に興味が向いて行きました。
「自宅の池に咲いたウォーター リリー」
そのうち近くの山である自然生活をしている凄い家族を縁にそこで共同生活を始めました。1983年でした。
このカナデアン ファーム生活は短くても大地に根を生やすという、それまでの僕にとって全く新しい生活でした。
廃材で家を建て、野菜を作り、川で行水というような自然な生活です。ここのハセヤンに勧められメキシコ行きを計画しました。彼がメキシコ時代世話に成った場所へ僕を紹介してくれるというとても有難いものでしたが、
ロサンゼルスで僕は全く違う行動を取ったのです。その後カナデアン ファームは成功しハセヤンの著書は数冊、ログハウスレストラン経営、マネジメントと発展し最近ではNHK「天才テレビ君ワイド」でも特集されていまし
た。
子供の自然教育ファームとして夢を叶えました。僕はカナデアン ファーム第1号の居候という事に成ります。
さてロサンゼルスでの全く違う行動については次回にでもお話しするとしまして、ここまでの話の中で見えてくる一つの共通点があります。一見70年代からのランダムな動きのようですが、その中に「共時性」というものが
見えているからです。では何故、僕は高校生の時ある書店でアダムスキーの本を無意識に手に取ったのでしょう?
さらに時代をさかのぼり、そこには小学生のころ同級生がみせてくれたあの写真と同じ写真が載っていました。
捜していた本だった事が直ぐ分かりました。つまり小学生の時点からこの共時性を呼んでいたからです。
だからその後、人生を変える内容に成ったと言えます。UFOの研究を始めて頻繁にUFOを目撃していたころ丁度古山さんと出会ったのも、講演会の事も、世紀の写真をいただいた事も一つのループの起承転結の中で
この共時性が働いたことに成ります。 「衝動」、「共振」または「シンクロニシティー」とも言えます。
始めてハセヤンを目撃した時はやはり高校生でした。その衝動も時間を超え引き寄せ合ったのです。
実はその後の僕のアメリカ生活も、長野の山村生活も、音楽生活も、家内に出会ったのも、共通点があり現在のマレーシア生活もまたこのシンクロニシティーが働いているとしか考えられないのです。
今月メキシコUFO空軍フィルムを見て久しぶりに衝動を感じました。それがきっかけでウェブサイトをサーフして「UFO STATION」に出会いました。何とこのサイトは25年の時を越えて古山さんの音信を伝えてくれたのです!
また新たなループが発生しているのを確実に感じています。
南国マレーシアより みさわ
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