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フィーリングの旅

 


(古山さんとの出会いから続く)
古山さんから頂いた貴重なメッセージはフィーリングに従うという事でした。
その後僕の興味が自分自身という内面に向かって行ったとき役立ちました。

1983年カナディアン ファームのハセヤンからメキシコ行きを勧められた僕は9月ロサンゼルスに入りました。恐ろしく巨大な町で右も左も分かりません。
とりあえずダウンタウンに行きそこから彼がロサンゼルス時代世話に成ったある日本人家族に連絡しました。そのお宅に1週間ほどお世話に成る内に自らの声に耳を傾けるように成りました。それは「自分の道を行け」というメッセージです。
(ハセヤンの紹介してくれた場所を辿って、そこでお世話に成っていったら彼の旅(道筋)を辿る事になる。それは楽かもしれないけれど、人は本来自分自身の人生を切り開くべきで、大変でも自分の道を行った方が本当に生きている感覚が強い)と感じた僕は満月の夜グレイハウンドバスに乗って北上しバークレィ大学の近く、アメリカでもとても自由な雰囲気を持った町で生活を始めました。

 その内にゲリラ的に活動する舞踏家と知り合い、あるコンサートで氏の舞踏グループがギグをするという誘いに応じました。場所はサン フランシスコです。
その晩の流れと、父が1971年に訪れた時の話を聞いたのが一致して直ぐに「ここだ!」と感じました。丁度その晩出会った人がルームメイトを探していたので直感通りサン フランシスコに住む事にしました。ところでこの舞踏家の玉野こういち氏は数年前に喜多郎の「たまゆら」というDVDが発売されましたが、ここで喜多郎とコラボゼーションしています。怖いもの見たさの方はどうぞ…(笑)
 さてシスコに住み出した僕は昼はカレッジで勉強、夕方からはガイドの手伝いをしながらヘイトアシュベリーという自由な雰囲気を持った地区で生活しました。
高校生から始めたギターもしっかり日本から逆輸入させ、セッションもしました。

 2年目が過ぎるころやっと会話もなんとか出来るようになって生活も慣れてきたころ何故か心に残る不思議な体験をしました。その女性は50代くらいである晩ユニオンスクエアーホテルから出てきました。彼女は僕に話しかけて来たのです。
「私はドイツ人です。今一人でアメリカ旅行をしているところです。雰囲気の良いカフェテリアを近くで知っていますか?」と聞いてきました。直ぐ彼女に行き道を説明すると「貴方を信用していますから後でそこで待ち合わせましょう」と言ってまたホテルに帰って行きました。とても気品の有る婦人で、僕にはドイツ人には見えませんでしたが、その後カフェテリアで僕のアメリカまでの経過の話に成って彼女は「貴方はアカデミックな仕事をすると良いでしょう。世界には沢山の文化があり、それを知るのもとても大事な事です」という2つの大きなメッセージを短時間に僕にくれたのです。
 
 アメリカ生活は僕にとって「自由に生きる」という学習であったと思います。
その自由とは「自分の責任は果たす」そして初心の「自分の道を切り開く」という事に集約されます。その後日本に帰った僕はハセヤンと付かず離れずの距離を保ちながら自分も自然の中で暮らす決心をしました。この感覚は逆カルチャーショックなのかもしれませんが、アメリカ帰りの僕は長野の山中に30軒ほどの山村と廃校を見つけ出しました。ここで生活しながら自分を見つめ直す事を始
めました。例えばこの廃校はガランとして校庭、講堂までついた木造2階建てですが最初の3日はさすがに怖かった!でも怖い、寂しいという感覚はすごく厄介です。
これを克服しなければどこに暮らす事も出来ないと言えます。冬はー15度になる海抜1000mの山村の暮らし、でも自分に没頭出来た暮らし、その一つがギターと作曲です。1987年友人が呼んでくれたコンサートへ出演しました。そこで素晴らしい女性歌手と知り合います。その内一緒に演奏活動する約束をしました。
 
 山村生活3年目に僕が選択した道は東京で小さな商社に勤めるという事でした。
そのころ僕は自分はどう生きるかが一番大切で、場所はそんな自分に選ばれると思い始めていました。商品を開発し、アメリカに乗り込み、ロサンゼルスを拠点にサンフランシスコ、カナダ、マイアミとリサーチをしていた時、ふとそよ風のような囁きが聞こえてきました。その直後、故郷の自然の中で大きな祭りがあることを知りわくわくしました。http://www.geocities.jp/singingstone03/
matsuri88.htm
この「命の祭り」はエコロジカルな生活、ヨガ、音楽等そのころの僕にとって大切な要素の集大成でした。この祭りで前から気に成っていた女性歌手Yさんを呼び「Cosmos]というグループを作り演奏しました。もう商社マンなどやっている場合では無かったのです。

 商社マンを辞め、またあの山村の廃校に戻ると時代は平成に成っていました。
山の暮らしは、東京生活となれない外国の旅仕事で疲れていた僕を細胞の中から癒してくれました。それからは音楽に没頭しました。雪の後は1週間町に行けない時もありました。作曲をしていると朝に成っていたり、生まれたての曲を講堂に行って一人でお披露目したり、自分の長年の夢を追う時期で、苦しいと思う前に夢中でした。寂しい時、夜空を見上げるとそこには星がいっぱい輝いていました。
 
 Yさんは東京で声楽家としても活動していましたが2人でデュオを組みイベントやコンサートなど地道に演奏活動を始めました。1990年11月ドイツのツアーを企画して頂き崩壊寸前のソ連とベルリンの壁が崩壊した直後のドイツを体験できました。Yさんは不思議な人で強力なブレーンがあり、彼女の為なら協力を惜しまないという善意の人々によっていつも支えられていました。そして上智大学の社会正義研究所主催のチャリティーコンサートを5年行う事によってアフリカ難民の為に学校が建った事は僕にとっても音楽をしていて本当に良かった事の一つです。
 
 グループもセッションを積み重ねて92年には尺八、琴奏者を正式に入れ日本の伝統的な音楽も演奏するように変容していました。Cosmosはライヴ活動のみでイベント雑誌「ぴあ」に載るようになっていました。93年は飛躍の年でした。虎の門ホールでのコンサートの後あるエージェントからヨーロッパ4カ国のツアーを企画して頂きました。それと平行して1ヶ月に及ぶポーランド在日本大使館主催のポーランド全国ツアーも企画して頂いたのです。5月パリに下りた僕らはハンガリーに移動してオーストリア、チェコ、ベルリンまでのツアーを終えました。実はその後、ドイツのケルンでのコンサートも決まっていたのですが、6月からのポーランド全国ツアーが決まっていて、琴、尺八奏者夫妻のアメリカツアーが終わるのを待ち、全員でリハーサル出来る1週間が迫っていたので,ケルンのコンサートはキャンセルし、なんとリハーサルの為だけに遠いヨーロッパから日本へ帰ったのです。Cosmosは忙しく成っていました。
 
 ポーランド全国ツアー”幽玄”はポーランド国側の歓迎レセプションから始まりました。
僕のテーブルに「Mr Misawa」と書いてあったのを覚えています。
科学者コペルニクス、ピアニストのショパン、映画監督アンジェイ ワイダとロマン ポランスキーを産んだ国、またあのアウシュビッツの悲劇、そしてアダムスキーを産んだ国に僕らはすっかり赤いじゅうたんを引かれて心地よい歓迎を受けました。ポーランド人はとても親切でそれをするのが当たり前と感じている民族です。宗教の力もありますが、例えば僕が一人で町を歩き、道を尋ねると数ブッロク一緒に歩いてちゃんと教えてくれるのです。
今まで資本主義社会から守られ来た良い意味の実直さ、純粋さがあるのです。

 ツアーは僕ら4人にスポンサー側2人、通訳コンダクター、ドライバーの8人で回りました。バスで次の会場へと移動すると町が現れ僕らのコンサートのポスターが貼ってありました。ノヴィソンチという小さな町の聖マリア教会でのコンサートは特に印象深く、演奏中メンバーが音楽的高みにどんどん入って行き音が聖堂に登って行く時清らかな精霊が一緒に上昇して行くのを感じました。ブロツワフのラジオ局が僕らの番組を放送したお陰でワルシャワに戻ってくるころには僕らのコンサートは、2千人規模に成っていました。コンサート後レセプションの最後までいてくれた少女を思い出します。彼女は何も言わずただ微笑んでいて僕に触れて「大丈夫よ!」と言
っているようでした。きっと天使だったのでしょう!全てが忘れる事の出来ない体験です。
帰国して故郷の諏訪市に戻ったらプレス(新聞社)が直ぐ来ました。音楽をやっていて良かったと思いました。そのころ僕の入国カードの職業欄には 「A musician」 音楽家と書いていました。

 ツアーのエンディングはポーランドの日本大使館でワルシャワ音楽大学、ショパンアカデミーの教授達やVIPの前で演奏しました。直前僕は「はっ」と我に返りました。
これは今考えると奇妙ですが、「何故ここにいるんだろう?」という感覚です。
アメリカ帰り、長野のひっそりとした山村に自分探しに行った旅は商社マンからまた山村生活を招きました。そんな長野の山猿が地道な音楽活動からとてもアカデミックな人生の舞台に来ていたのです。沢山の人々の支えの賜物です。あの晩シスコで出会った不思議な貴婦人の事を僕はスペース  シスターズとは言いません。
でも僕の人生に貴重なメッセージを伝えてくれる為に絶妙なタイミングで現れて、その役目を着実に果たしてくれた事を見れば、「メッセンジャー」と言えます。
その後95年、東欧の一人旅の電車の中でもあの婦人と相似象といえる人にまた会う事に成ります。

 Cosmosもまた時代と相互作用していて、1990年から始まったの激動のヨーロッパを背景に進んで行きました。特に東欧ではベルリン、ハンガリー、チェコ、ポーランドの自由民主化、その後のチェコとスロバキアの分離など東欧も世界も大きく変化しました。自分達は音楽という個人的な夢を追求しているだけと思っていたら、いつしか大きな流れの中にいて、何か一つの目的の為に実は奉仕していたのかもしれないのです。

 その後Cosmosのメンバーがそれぞれ別々の道を行ったのもまた自然の姿です。
それは音楽家の生命維持活動であるとも言えます。現在Yさんはワルシャワ生活をしているようです。尺八、琴の川村泰山夫妻はCDも出し頑張っているようです。
セッションで手伝ってくれた大倉流家元、大鼓の大倉正之介氏も健在のようです。
喜多郎「たまゆら」には氏も出ています。そして僕は5年前に日本を出てここ南国のマレーシアに住んでいます。 
 
 僕に起きたこの10年間を集約しても、そして誰にとっても人生ほど奇妙で興味深くダイナミックなものは無いでしょう。人生は自分のデザインした通りになると思うのです。そして自分を絶えず磨いていればその内必ず次のステージ(場)が与えられます。
その為にいつも貴方の心の故郷にやさしく吹いているそよ風に耳を傾けてください!
懐かしい感覚です。そして時として意外かもしれません。でも良く耳を澄ましさえすれば(心を静めれば)分かります。それは初めから何処かで知っていたような感覚です。


写真は  ヘリテージ ホテル ムーア式建築100年
      旧クアラルンプール国鉄駅につながる
      現在でもオリエントエクスプレスが着く

 


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